(聞き手)
針生様はどちらにいらっしゃったのでしょうか。
(針生様)
私は震災直後、課の方にいました。課長が大丈夫だとなだめる傍ら、積み上げていた書類が崩れていました。揺れは凄まじいものでしたが、何かあったら、私たちは
記録をするのが仕事だという
意識がありました。そこでまず、どのような被害が出ているのか、手分けして庁舎内の
写真を撮りました。「
写真など撮っている場合か」と言う職員もいましたし、後から市民の方にも言われましたが、それでも文化センターに避難する人の
写真や、津波が来る前の
写真なども撮りました。時間が経つにつれて、ずぶ濡れの人がどんどん市役所に来ました。市役所は
避難所ではありませんが、皆さんやはり、市役所に来れば何かわかるのではないかという事で来られるのです。廊下にも市民の方がいらっしゃって、「子どもがここの保育所にいるのですが連絡は取れませんか」というような相談も受けるようになりました。やはり、市役所なら何とかしてもらえるか連絡が付けられると思って来られているのですが、どこがどうなっているのかわからず、残念ながらお答え出来ませんでした。本部にいた課長などはテレビで
情報を見る事が出来たのかもしれませんが、私たちはそのような映像を見る事が出来ませんでした。私はその日は一晩中ラジオを付けて、流れてくる
情報をメモし、掲示板のようなものを作りました。心配していた幼稚園の
情報がラジオで流れてきたら、それを紙に書いてガムテープで掲示するなどといった事をしました。市役所に避難された方が
避難所に移るまでの数日間は、
写真を撮って
記録に残すという本来の役目を果たす余裕がありませんでした。それが最大の反省です。
広報広聴係として、今後に活かさなければいけないと思いました。
(片山様)
私たちを、「
記録する事」に専従させてください、本来の仕事に専念させてくださいと、3日後の朝に初めて言えるようになりました。3日後の朝に私たちの仕事は何だろうかと話し合いまして、本来の仕事をしようと考えたのです。そのために体制を変えねばいけないと思い、災害対策本部に話をしに行きました。おかげでホームページでの
情報提供や、災害対策本部の
記録がきちんと行えるようになりました。
(針生様)
災害対策本部と地域コミュニティ課は、場所的に近い位置にあるので、人手が足りない時には声を掛けられて率先して動きました。その分、
記録を残すという本来の仕事には気が回らなくなってしまいがちでした。市民の方が
避難所に移った日に、自分たちの仕事は何なのかと課長に言われて、そこで初めて、
記録を残すことが最優先だと気持ちが切り替わりました。
(聞き手)
地域コミュニティ課の中で、震災の時に市役所付として残った方は何名いましたか。
(片山様)
7人です。11人中4人が
避難所担当になりました。私は災害対策本部には会議がある時だけ顔を出すようにしました。震災後、間もなく、1階の正面受付に相談窓口を設ける事になって、それを担当する事になりました。先ほどの、自分たちの仕事に専念しようという事になるまで、受付や聞き取り調査、携帯充電サービスの整理券の配布など、何でもしました。
(聞き手)
そこから、どのように
写真を撮り続けたのでしょうか。
(針生様)
まず当日は、私ともう1人の職員とで二手に分かれて
写真を撮りました。
広報広聴係で残ったのが私を含めて3人だけでしたが、うち1人は完全にホームページ専属でした。ホームページ作成は集中して発信出来るように場所も移しました。
各所に
写真を撮りにも行きました。危ないから1人では行くなとは言われましたが、荷物が届いたから積み下ろしに行かなければいけないなど、すぐに人手が割かれてしまうのです。それでも
写真を撮りたいので、「出かけてきます」と紙に書いて、1人で砂押川から大代付近まで歩いて
写真を撮った事もあります。自家用車で行ける所まで行って、そこから歩いて
写真を撮ってきた日もありました。行ける時にはとにかく出掛けました。他にも、災害
情報誌を作って発信しました。
(片山様)
避難所の名簿作成の手伝いや庁舎のチェックなども行いました。それも大事な事ではありますが、本来は
記録するという仕事が必要なので、そうした手伝い業務は外してもらいました。それでもなお、「ここに調査に出掛けてくれ」と言われたり、「相談窓口の手伝いをしてくれ」と頼まれたり、「
マスコミや視察を対応してくれ」などと頼まれましたが、その都度同じ事を何十回も言いました。
(聞き手)
3日目以降は、ある程度
写真撮影を再開したのでしょうか。
(片山様)
写真だけでなく、
広報活動全般を再開しました。ホームページも含めて、地域コミュニティ課にいる職員で頑張る事にしました。一部の職員は相談業務に行ったり、総合案内を手伝ったりしていました。
(聞き手)
難しかった事は何でしょうか。
(針生様)
例えば、携帯の充電をしたい人が集まって、充電の業務を若い職員に任せていても、そのついでに
情報を確認しにくる方の質問には答えられない事がありました。総合窓口には、何を聞かれてもある程度仕分けが出来る人がいないといけないという事を、担当した職員が一番感じていました。
(聞き手)
様々な質問に答えられる人は一部しかいないのでしょうか。
(片山様)
すべて答えられる人はいません。例えば、どこの銀行だとお金がおろせるか、といった相談があると自分で銀行の知り合いに電話を掛け、それを張り出すようにしていました。交通機関の状態を聞かれたら、テレビでその
情報を見た職員が、「こういう状態だと報道されていました」と答えるしかありませんでした。むしろ、「何か知っている
情報を教えてください」と聞く事もありました。すると携帯電話はあそこの陸橋を超えた辺りからなら繋がるというような
情報を頂くのでそれを伝えますし、仙台の中央なら公衆電話が無料で使える、仙台までは高砂からバスが出ているというふうな
情報を、相談に来る人に逆に教えてもらいました。陸の孤島とはこういう状況の事を言うのだと実感しました。
(聞き手)
ニーズを取り、
情報も収集しながらそれを一緒に発信するという事でしょうか。
(片山様)
そうです。他にも、どこの医療機関が空いているのか聞かれました。ですので、市役所で医療関係の担当部署である健康課には自転車で病院まで行って調べてくださいと頼んだ事もあります。
それ以外にもガソリンが不足していました。私は宮城県石油組合に毎朝電話したのですが、向こうに「どこか開いているガソリンスタンドを知りませんか」と逆に聞かれるような状態でした。ですが、市民の方がわかっていた事もありました。浮島の気仙沼商会では人が並んでいたとか、体育館前のガソリンスタンドでは既に砂押川まで列が出来ているとか、ここはもう今並んでいる人だけで品切れだというふうな事をわかっているのです。多分関係者から
情報を聞いていたのでしょうが、むしろこちらの方が何も答えられず、歯がゆい思いをしました。もしかしたら、嘘を教えてしまったのではないかとも思う事もあります。教えた
情報と、実際の状況が食い違っていた事もあったかもしれません。